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甲府地方裁判所 昭和39年(ワ)139号 判決 1968年7月19日

原告

渡辺正保

代理人

鈴木松太郎

外一名

被告

浅間神社

代理人

木村利夫

外二名

補助参加人

指定代理人

川井重男

外五名

当事者参加人

(選定当事者)

大森虎三

外十名

代理人

大野正男

主文

一、原告の請求を棄却する。

二、当事者参加人らが別紙目録記載の土地について、その地上の立木の小柴刈り、下草刈り及び転石の採取を内容とする使用収益権を有することを確認する。

三、原告は当事者参加人らに対し、別紙目録記載の土地につき、甲府地方法務局吉田出張所昭和三六年九月九日受付第四一三一号をもつてなした地上権設定仮登記の抹消登記手続をせよ。

四、当事者参加人らのその余の請求はこれを棄却する。

五、訴訟費用はすべて原告の負担とする。

事実

第一当事者の申立

一、原告の被告に対する申立

1  原告が別紙目録記載の土地(以下本件土地という)につき、建物並びに竹木所有を目的とする存続期間昭和三六年四月二九日以降同六六年四月二八日迄の三〇年、地代一ケ年坪当り三〇円、地代支払期日毎年三月一〇日、但し地代は地上権設定本登記完了の日から起算する約旨の地上権を有することを確認する。

2  被告は原告に対し、原、被告間の甲府地方法務局吉田出張所昭和三六年九月九日受付第四一三一号をもつてなした地上権設定仮登記手続をせよ。

3  被告は原告に対し、本件土地を引渡せ。

4  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに第3項に限り仮執行の宣言を求める。

二、被告の申立

1  原告の請求はいずれもこれを棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

との判決を求める。

三、当事者参加人らの原、被告に対する申立

1  当事者参加人ら(以下単に参加人らという)が、本件土地について、その地上の立木の小柴刈り、やといもやの採取、下草刈り及び転石の採取を内容とする使用収益権を有することを確認する。

2  原告は、本件土地に参加人らが立入り、その地上の立木の下刈り、小柴刈り、下草刈り、やといもやの採取及び転石の採取を行うのを妨害してはならない。

3  原告は参加人らに対し、本件土地につき甲府地方法務局吉田出張所昭和三六年九月九日受付第四一三一号をもつてなした地上権設定仮登記手続をせよ。

4  参加による訴訟費用は原告及び被告の負担とする、

との判決を求める。

四、参加人らの申立に対する原、被告の申立

1  参加人らの請求はいずれもこれを棄却する。

2  訴訟費用は参加人らの負担とする。

との判決を求める。

第二当事者の事実上の主張

一、原告の被告に対する請求の原因

1  原告は被告神社代表者高村字八(以下被告代表者高村という)との間で、昭和三六年四月二九日、被告神社所有の境外地である本件土地について、前記原告の被告に対する申立1項記載と同旨の地上権設定契約(以下本件契約という)を締結した。

2  右契約の際、被告代表者高村は原告に対し、本件土地は直ちに使用出来ること、及び昭和三六年五月一五日迄に右内容の地上権設定登記手続を完了することを約束したので原告は右契約時に地代前渡金として金五〇万円を支払つた。

3  しかし、その後右被告代表者高村は言を左右にして登記に応ぜず、その為原告において前記の如き甲府地方法務局吉田出張所昭和三六年九月九日受付第四一三一号をもつて地上権設定仮登記手続をなした。その後も被告は原告に対し、本件契約を締結したこともなく、又仮に締結したとしても無効であると主張してこれを争い、右登記手続き及び本件土地の引渡しをしない。

4  よつて原告は被告に対し、右地上権設定契約に基づき、右地上権設定仮登記の本登記手続をなすべきことを求めると共に、その取得した地上権の確認と、地上権に基づく本件土地の引渡しを求める(本件土地には、その地上に存する立木及び溶岩石が土地の定着物として当然含まれるものである)。

5  なお、被告は本件契約締結の際、原、被告間に、本件契約締結の事実を氏子に公告することと、神社本庁統理の承認を得ることを契約の成立要件とする旨の了解があつたと主張するが、右契約時にそのような了解はないのみならず、宗教法人法第二四条の反面解釈によれば、本件不動産の如き神社の境外地には右統理の承認は不必要であり、また氏子への公告が欠けても契約の効力には影響がないと解すべきである。

仮に右二四条が本件地上権設定契約にも適用があるとしても、原告は右規定の存在は知らなかつたものであるから、同条但書の善意の相手方に該当し、従つて被告は右規定違反の故をもつて原告に対抗しえないものである。二、被告及び補助参加人の答弁

1  原告の請求原因1項の事実中、被告神社の境外地である本件土地についての原告主張の如き内容の契約条項に異議がない旨をその主張日時に表明したことは認めるが、その余の事実は否認する。

右契約は原告主張の如き本契約ではなく、次の如く氏子への公告と神社統理の承認を得る為の準備的行為に過ぎず、契約を締結するに至つたものではない。即ち、本件の如く神社がその所有する不動産を貸与する場合には、宗教法人法第二三条にいうごとく、その契約前にまず神社の氏子に対して契約すべき内容を公告し、且つ予め神社本庁庁規九三条四号による神社本庁統理の承認を受けることが必要であつて、本件においても、前記条項について交渉の際、被告からその旨申出したところ、原告もこれを了承し、右公告及び統理の承認が得られた後に前示契約条項の趣旨に従つた正式な本契約をなす旨の了解が成立していたものであり、前記原告の主張している契約は、原告が「とに角上京したのだから、仮契約ということで署名して欲しい」といつたので、右了解のもとに契約条項としては異議ないものとして署名したにすぎない。

2  右同2項の事実中、その主張日時に金五〇万円を受取つた事実は認めるが、その余の事実は否認する。

3  右同3項の事実は認めるが、同4、5項の主張は争う。本件土地上に存在する立木及び溶岩石は独立して多大の価値を有しているものであり、取引の対象にはなつていないものである。

三、被告の抗弁

1  仮に本件契約が成立したとしても、被告神社には本件契約締結の権限がない。即ち、本件土地の実質的所有者は被告神社ではなく山中区民中の旧戸及び入会加入金を支払い被告神社の氏子と認められた者を構成員とする山中部落の所有的支配に属する部落有地である。もともと本件土地は、江戸時代から山中部落民が入会つてきた村中入会地であつたが、大正六年五月二一日、当時の山中部落民である高村宗司外一二〇名が、各戸二〇円宛を出捐し山梨県から払下げを受けることとなつた。しかし、当時山中部落は払下げを受ける主体となることができなかつたので、山中部落の属していた中野村名義で払下げを受け、これを山中部落の団結の中心でもあり、その象徴でもあつた被告神社に売却する形式をとり、同年一二月一九日にその旨の所有権の登記がなされたものであつて、従つて本件土地の実質的所有者は山中部落、即ち山中部落民全員の総有地である。

従つて、被告神社は、本件土地の実質的所有者である山中部落民全員の同意なくしては、本件土地を処分することはできないのであつて、仮に被告神社の代表者と原告との間で本件契約が締結されたとしても、その契約は本件土地について何らの効力も生じないものである。

2  仮に原告主張の如き地上権設定契約の成立が認められるにしても、その地上権設定の意思表示は錯誤により無効である。即ち、被告代表者高村は、法律的素養なく、地上権と賃借権の区別も知らなかつたところから本件契約も賃貸借契約と信じて締結したのであるが、今回の訴になつて始めて地上権と賃借権との法律上の差異を知つたものである。

従つて被告の右地上権設定の意思表示はその重要な部分に右の如き錯誤があり無効である。

3  仮に原告主張の如き地上権設定契約の成立が認められるとしても、本件土地中、その西部三〇町八反二畝二一歩(以下B地区という)は、いわゆるキヤンプマックネア演習場として「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」第二条により、米国軍隊の使用に提供する為、昭和二五年以来右条約及び協定上の義務の履行として、日本国政府が被告名義のもとに賃借しており、従つてこれを知りながら右賃貸借に優越する地上権が設定されても、その契約は右B地区に関しては民法九〇条により無効である。即ち日本国の米国軍隊に対すを、B地区土地の提供は、右に述べた如く条約上の提供義務の履行としてなされているのであり、日本国憲法では右の如き条約上の義務は、これを誠実に遵守すべきことを規定し(第九八条二項)ている。従つて関係土地所有者らも直接間接にこの日本国の義務履行に協力すべき立場に置かれているものである。してみれば、右条約上の義務履行の為に、現に日本国と賃貸借契約が存続しているB地区について、これを知りながら、あえてこれに優越する地上権設定契約を締結することは、公の秩序、善良の風俗に違反する行為としてその効力を認むべきではない。

なお、右賃貸借契約は、前記条約及び協定上の日本国の土地提供義務が存続する限りこれを継続することを予期して締結したものであり、結局、米国軍隊がB地区の使用を解除するまでとする不確定期限付の契約であつて昭和三六年四月二九日当時もなお有効に継続していたものである。従つて昭和三六年度の賃貸借契約書が日本国と被告との間と調印されていなかつたとしても、契約が終了していたわけではない。なるほど日本国と被告間のB地区に関する賃貸借契約中には契約期間を一年とし、両者協議のうえ契約を更新することができる旨の条項もあるが、右条項は、財政法第一二条のたてまえ上、賃料を年度毎に区分して、歳入をもつて支出し、併せてその額、使用方法その他の条件の改定の機会を時宜に適応しうるようにした改定期間の意味にしかすぎず、賃貸借の期限を意味するものではない。

四、被告の抗弁に対する原告の答弁

1  被告の抗弁1項の事実はこれを否認する。その詳細については、後記参加人らの請求の原因に対する答弁(2)項以下と同一である。

2  右同2・3項の事実はいずれも否認する。日本国と被告間のB地区に対する賃貸借契約は、昭和三六年三月三一日をもつて終了しており、本件契約締結時には存在していなかつたものである。仮に存在していたとしても、右賃貸借契約は条約によつて直接取得されたものではないのであつて日本国と被告との間に結ばれているものであるから、通常の私人間の契約と異なるものではなく、従つて、その法律関係は民法理論で律すべきところ、国がB地区の使用を必要とするならば、賃借権の登記あるいは地上権の設定等、自己の権利を保全する方法があつたのであるから、それをしなかつた以上、物権たる地上権を取得した原告が優先することは当然である。

五、参加人らの原、被告に対する請求の原因

1  山中地区住民は、江戸時代からその生計をたてるため、本件土地についてその地上の立木の小柴刈り、(立木の枯れた下枝などを手で折つて採取すること)下草刈り(草の採取のこと)、下刈り(小立木の伐採のこと)、やといもやの採取(養蚕用に鉈で切り得る範囲の樹木、枝を採取すること)、富士山の噴火によつて生じた溶岩石の採取(これには地上に露出している巨大な溶岩から切りとることも含む)などを行つてきたもので右内容の入会権を有する。即ち明治九年の地祖改正による土地の官民有区分が行われた際、右入会慣行が認められ、その為本件土地払下げの内示があつたが、当時の区民の申し出た代価が低かつた為払下げを受けられず、その後本件土地は、明治二二年に一旦御料地として当時の御料局の管理するところとなつた。しかし、その後も山中地区住民は、前記の如き入会行為を継続し、又民間払下げを請願してきたところ、明治末年に至り、本件土地が御料局から山梨県に再び編入されたので払下げ問題は急速に進展し、大正四年の出願により、同六年五月二一日、本件土地は中野村に払下げられることになつた。右払下げが中野村名義になされたのは、当時旧村合併で山中地区が他の二地区と共に中野村となり山中区が行政区劃たる意味を失い払下げを受ける資格を失つたため、便宜上そうしたまでのことである。事実、右払下げがなされる前の大正五年三月一日には、後日本件土地が何らかの形で山中区民の実質的所有になるように内部的に措置するとの話し合いがまとまり、中野村議会はその為に当時から山中住民の氏神である浅間神社に対し本件土地を転売する旨の決議をなしていたのである。そこで右中野村が山梨県から本件土地の払下げを受けた後である大正六年一二月一九日には、参加人ら及びその先代を含む山中地区住民が、戸別割で平等二〇円宛の拠金をして、代金二、三四八円八〇銭をもつて、中野村から本件土地を買受け、これを被告浅間神社の所有地としてその旨の登記を了したのである。

2  右払下げ当時と明治初年の頃とは、入会の内容について若干の変化がある。即ち、明治九年官民有区分の頃は、山中区民は本件土地を含む山中周辺の入会地の立木(主として富士の赤松)を伐採し、これによつて建築などを行つていた。しかし、立木の伐採は明治中期頃には許可を要することとなり、県の神寺兵事課の許可を得て伐採が行われるようになつた。一方、官民有区分以後でも、小柴刈り下草刈り、やといもやの採取、転石の採取などは従来どおり続けられており、これらは当時の入会農民の生活を支える基盤となつていた。小柴、下草、転石などは、入会農民が農閑期についてでも自由に本件土地に立入つて必要なだけ採取し使用することができ、下草等の育成の為には一年ないし二年に一回位の割合で草枯時に野火をつけるなど、区民らがその管理にあたつていたものである。しかし野火は他に類焼したようなこともあつて、明治の終り頃には行われなくなつた。

明治末年、本件土地が御料局から山梨県に編入された頃からは、小柴刈りには県の許可を要するようになり、その立入り時期も定められるようになつた。しかしこの許可は形式的なもので、特別の場合を除いては小柴刈りの為の立入りは容易に認められていた。やといもやの採取についても村役場が鑑札を出すようになり、大正初年頃になると下草についても区長が立入期間等を指示していたようである。転石の採取には、その頃でも特段の許可は要しなかつた。このように、大正六年頃迄は、種々の規則はあつたが、基本となる小柴、下草、やといもや、転石の採取などの入会慣行は継続され、依然として入会農民の生活を支える重要な基礎と認められてていたのである。

その後、前記の如き経緯で本件土地が浅間神社名義に払下げになつたわけであるが、右払下げ以来今日迄の入会内容等は殆んどかわることがなかつたのであるが、右については後述(3項以下)のとおりである。

ただ昭和二〇年一〇月から、同二五年頃迄は、本件土地全部が米軍に接収されていた為、参加人らも本件土地へ立入つて入会うことはできなかつたが、地元農民の強い要求もあつて、右期間後は、米軍が演習を行わない時には入会の為の立入が認められるようになつた。昭和二五年二月には調達庁と村との間で、半強制的に本件土地を米軍に演習場として使用させる旨の合意が成立した。しかしこの場合でも、右の如く入会の為の土地立入は、演習に支障なき限り最大限に認めるとのことであり、現に土・日曜日は本件土地への入会ができ、その他の場合でも、米軍は調達庁を通じて村当局に演習を行わない日を指定してくるので、その期間は、参加人らは本件土地全体に立入つて下草刈り等前記の如き入会行為をなしてきたのである。昭和三二年には、本件土地中前記B地区を除いた土地(以下A地区という)が米軍から返還され、右地区に対してはなんらの制約なしに立入つて入会うことができるようになつた。

以上の如く、現在でも米軍の演習地になつているB地区における入会は、演習日との関係で制約を受けているが、入会が不能になつたわけではなく、これを継続しているのであつて、従つて同地区における入会慣行は存続し権利として認められているものである。

3  入会行為の主体、内容、規制方法等は次のとおりである。

(一) 入会権者の資格要件

本件土地に立入り、小柴刈り、下刈り等の入会的利用を行う資格のある者は、次の要件を必要とする。

(1) 山中部落内に永住の意思をもつて長期かつ継続的に居住する者であること、具体的にいえば、大正六年本件土地の払下げを受けるについて拠金したいわゆる旧戸の子孫、又はその分家である住民。

(2) 外来者であつても、約二〇年間永住の意思をもつて部落に居住する者であれば、次の如き諸役テンマをつとめることによつて有資格者となる。右諸役テンマとは、神社の清掃、道路の補修等に従事することであつて、これは部落の維持に必要な部落共同体の構成員として義務であり、これらのテンマをつとめることによつて、単なる居住者と違つた部落共同体の構成員として認められることなる。

右いずれかの資格を具備しないと部落民として入会行為をすることができない。

(二) 入会権者の資格の認定手続

右資格要件を具備したかどうかを認定する手続きは通常次のように行われる。共同体の構成員と認められたいと思う者は、まず常会長にその旨を申出る。常会長が右(1)、(2)の要件を備えていると思う者についてはその旨を区長又は副区長に申出る。そして、最終的には下刈りの場合など、入会権者が集つたときにその申出をはかり、総員の承認を得たうえではじめて共同体の構成員として認められ入会行為を行うことができるのである。

(三) 入会の内容

(1) 下草刈り。下草については、山中地区の住民であれば時期及びその量には何らの制限なく、自由に本件土地へ立入つて必要なだけ刈ることができる。毎年、大体六月ないし九月に青草を刈つて馬糧及び堆肥とする(山中地区には現在も牛馬約四〇頭がいる)。

(2) 小柴刈り。時期は毎年四月一〇月ないし一二月に行われるのが通常であり、その他については下草刈りと同一である。採取した小柴は、全部自家用に用いられる(少数の者を除いて参加人らは未だ炊飯、風呂等に薪を使つている)。

(3) やといもやの採取。この地方の重要な家内産業は蚕業であるが、蚕がまゆを作るための「もや」は、雪解け後、木の芽がでる迄の間の三、四月に、区民は本件土地に立入つて必要量だけ採取することができる。

(4) 転石の採取。富士山の爆発によつて生じた火山岩は、区民が井戸石、塀石、土台石等として採取する。自家用であればどれだけとつても良い。しかし転石は他に大量に販売して利益をあげ、これを山中区の公共費に使うことがある。その場合は代と区割をきめて区民又はその他の業者に販売し、その代金を神社の維持費等にあてる。各戸へ配分はしない。

(5) 下刈り。土地上の小立木を伐採し、林の育成をし、伐採したものは燃料にあてる。これはすべて入会区民の共同作業によつて行われる。下刈りは、一年又は二年に一回、農閑期に、日時、区域を決めて組毎に地割をし、共同で小立木の伐採をする。伐採してよい木の大きさは、なた切りとし、のこぎりの使用は認めない。これらのことは、氏子総代や常会などで区民が寄り合つてきめる。伐採した木は組毎に集められて束ねられ、大体等分し、その後くじをひいて当つた者から順にその束をとつていき、最後には戸割りに木の束が分けられる。

(6) 立木の伐採。山中区において、公共経費の必要が生じた場合は、その財源にあてるため、本件土地など入会地上の立木を伐採し、これを競争入札のうえ他に処分する。この代金は、浅間神社の修理維持などの為にもあてられるが、大半は区民全体の利益の為め公共施設の購入、修理に用いられる。例えば、小学校の建築修理、備品の整備、消防ポンプの備付などがそれである。

(7) 土地の分割。大正六年に本件土地の払下げを受けた後は、部落の土地に対する支配力が強くなり、終戦後の昭和二四年には、二、三男対策として、神社所有名義の北畠の土地(本件土地の東道路下)約二三〇反を氏子たる区民(但し戸当り)二二九名に一反ずつ分割のうえ永代貸付けをすることとし、一戸千円宛をとつて、住宅地として分けた。翌二五年には、本件土地東国道沿いに接続する土地(古来本件土地と一体をなしていたもの)の一部を、大正六年、本件土地等の払下げをうける為、当時二〇円出捐した区民及びその子孫一二七戸に、感謝の意を表して、一戸当り三畝又は五畝宛無償で分割した(これを押戸割という)。

昭和三八年には、諏訪堀地区一帯二町歩の神社有地を処分した。

(四) 入会内容の変化。

右(三)の(1)ないし(7)項に述べた入会の内容等は、大正六年の払下げ以前とそれ以後では若干の変化があるが、規制方法等については既に述べたので、以下入会の内容についてのみ述べる。江戸時代以来の古典的な入会行為は右(1)ないし(5)であり、これらは今日に至るまで継続してなされている。右の入会行為は、「下刈り」のように、一斉に本件土地に立入つて集団的に行われる場合もあるが、「小柴刈り」等における土地利用、果実採取の方法は、個別的で、その採取した果実は部落民個人の所有となる。大正六年の払下げ以後は、部落民の地盤に対する支配力が増大したことに伴い、前記(6)項にいう立木の伐採や植林等が行われるようになつた。右立木を売却した代金等は、入会権者に分配したり個人的収益に還元したりしない。それらは部落構成員全体の共通の利益ないし事実の為に使われる。従つて、入会の内容は大別して右の二つの類型に分けられるが、個人が集団の構成員として個別的に利用しうる収益権の内容は、右(1)ないし(5)に述べたものである。(尚、本件において参加人がその確認等を求めている権利は、参加人各自に帰属する右の個別的な使用収益権である)。なお、右(4)項の後半、及び(6)、(7)項の如き利用行為は、従来の個別的利用を中心とした入会慣行と異なるが、しかしこれも入会慣行として認めることは何ら支障はないものである。即ち、入会慣行は、古来主として農業に密着して発達してきたものではあるが、その本質は共同体としての村落住民の全生活に資するところにあるのであつて、農耕のみならず、牧畜、養蚕、建築等の為にも入会慣行は成立するのである。つまり生活共同体としての村落住民の生活維持のため、住民が土地を共同体的に所所又は利用しているところに本質がある。従つて入会の結果が農耕用に限定される必要はいささかもないといわなければならないからである。

(五) 部落の機関等について

(1) 前記個別的な入会の場合は特に制限もないが、「下刈り」については氏子総代又は常会が、その日時、組毎の受持区域等を決定する。

(2) 次に、比較的重要でない産物の処分などの場合には「常会」が多く利用される(「常会」は山中区内の六つの組毎に開かれる会である)。その場合は、出席者全員の賛成を得て決定される。欠席者の殆んどは、口頭で出席者に委任しているが、特段の反対の意思表示がない限り、賛成とみなされる慣行がある。

(3) 又、地盤の分割ないし処分などの事項については、賛成が明らかなような場合は常会での審議による場合もあるが、多く「総寄り(権利者集会)」が行なわれ、入会利用者が全員集つてその同意を得る(欠席の場合は常会と同じ扱い)。

(4) 区長は入会の利益についての処分等について何ら一般的代表権をもつものではなく、個別的な処分について全員の同意が得られた場合に、その同意のもとにその執行を担当するにすぎない。

(5) 又、有志会は、部落の有力者(区長、氏子総代、村会議員、元村長、助役の経験者、常会長等)によつて構成されており、地盤の分割、処分などの場合にその原案を作成する権限をもつが、それは最終的決定ではなく、常会又は総寄りによつて承認され同意を得なければならない。前記土地分割の場合もそうであつて、二、三男対策の場合は有志会の原案を、常会と総寄りで、旧戸割りの場合は、常会で、諏訪堀地区の場合は総寄りで、各全員の同意を得て実施されたものである。また、昭和三四年の本件土地中一二町歩の立木伐採に際しては、やはり総寄りによつて全員の同意を得たうえこれを売却し、その代金を山中小学校の屋内体育館建設資金に充てたのである。

4  (一) 以上の如く、本件土地については、江戸時代から現在迄、前記の如き入会慣行が存続してきたところ、参加人らは、いずれも旧戸もしくはその子孫及び前記入会権者の資格取得の要件に合致するとしてその入会行為を山中部落から認められた者である。従つて参加人らはいずれも現在、前記の如く本件土地について、小柴刈り、やといもやの採取、下草刈り、及び転石の採取をなしうる使用収益権を有しているものである。

(二) これに対し、原告は被告神社との間で本件土地に対する地上権設定契約を締結し、それが有効であり、且つ参加人らの前記個別的収益権は、既に消滅しているとしてその存在を争い、右契約に基づき甲府地方法務局吉田出張所昭和三六年九月九日受付第四一三一号地上権設定仮登記手続を了し、本件土地を自動車整備工場建設地並びに観光開発地として使用しようとしている。その為に原告は甲府地方裁判所都留支部において、参加人らに対し立入禁止の仮処分決定を取得し、現在参加人らは本件土地に執行官の許可なくしては立入ることができなくなつている。

(三) ところで、右地上権取得の原因となつた原、被告間の本件契約は、被告神社代表者高村宇八他数名の者が、部落全員の承認も得ずに締結したものである。右契約は決して本件土地についての入会権者の総意ではない。そして、入会権が総有の性質を有するものである以上、これを全員の同意なくして処分なしえないことは当然であるから、既に住民大会が開かれて、この契約なるものは住民の総意として絶対に認められない、原告に籠絡された者の責任を追求する旨の決議がされた現在、最早、原告は本件土地につき地上権を取得することはできない。

また、参加人らの入会権が、原告の主張する地上権より以前から存続していることは前記のとおりであり、且つ、右権利は他の権利に対して登記なくして対抗しうる物権であると一般に承認されているものであるから、原告主張の地上権設定契約が有効としても、その権利内容は参加人らの入会権と牴触し結局右参加人らの入会権が優先することからも、原告は本件土地について地上権を取得しえないことになる。そうすると、前記地上権設定仮登記は、その実体を欠くことになるから、参加人らはその抹消を求めると同時に、前記個別収益権の確認と、それに基づく妨害予防請求権によつて、予め今後参加人らの入会行為を妨害しないことを求める。

(四) 仮に、本件土地につき山中部落民の江戸時代からの入会慣行が認められないとしても、少くとも、本件土地払下げのあつた大正六年以後はこれを明瞭に認め得るのであるから、参加人らは右日時以後に取得した前記収益権に基づき、右(三)項と同様の請求をなすものである。

六、1 原告の答弁

(一)  当事者参加人らの参加に対する異議

当事者参加人らの本件参加は、専ら原、被告間の訴訟を遅延させる目的をもつてなされたものであるから却下を求める。

(二)  参加人らの請求の原因に対する答弁

(1) 参加人らは本件土地について入会権に基づく個別的収益権を有すると主張するが、個別的収益行為は事実行為であつて、入会権の如く法的権利としては認められないから、右権利に基づく本訴請求は失当である。

(2) 参加人らの請求の原因1、2項の事実は否認する。仮に江戸時代には入会慣行があつたとしても、それは明治九年に行われたいわゆる官民所有区分により本件土地が官有地編入処分を受けたことによつて消滅したものである。

(3) 右同3項の事実も否認する。参加人らは入会権者の資格取得の要件等について述べているが、その参加人自ら自体の中に多数の外来者があり且つ農民でない者、即ち入会資格のない者を含んでいることは矛盾であり、結局右事実は、実際には入会慣行が既に存在しないことを物語つているものである。また、参加人らは種々入会の内容を述べているが、本件土地は石地なので草木の生育は困難であつて、草採取の入会は存在しない。

しかも参加人らの生活は、燃料は石油、プロパンガスを用い、草を肥料、飼料として多用していないのであり、山野の草木に依存するような生活様式を備えていない。やといもやの採取については、山中部落には桑畑がなくし養蚕は全く行なわれていないのであるから、その採取を内容とする入会慣行が存在する筈がない。転石の採取についても、それが入会権の行使内容であれば、入会団体自身が採取区域を定め、組織的に採取ならびにその販売をなすのが当然であるにも拘らずそのような採取跡は殆んどない。更に参加人ら主張の如く、立木の売却代金により、小学校の建築修理もしくは消防ポンプの購入等がなされているならば、結局その利益は、入会権者のみに帰属するものではなく、全く入会権者でない者にまで及ぶことになり(例えば警察官、別荘所有者等)、そのような場合には、右立木の売却等の行為は、入会的使用、収益行為とはいいえないものである。

(4) 右同4項の(二)の事実は認めるも、同項(一)、(三)、(四)項の事実は否認する。有志会は山中部落における最高の意思決定機関であり、右有志会が原告との本件地上権設定契約を承認した以上、その契約は有効であり、仮に原告主張の如く入会権が存在していたとしても、右有志会の決議によりそれを放棄したものといわなければならない。従つていずれにしても本件地上権設定契約は有効であつて、参加人らの請求は失当である。

被告の答弁

参加人らの請求原因事実はすべて認める。

第三、証拠関係<省略>

理由

一本件契約成立の有無

昭和三六年四月二九日、被告神社代表者高村宇八が、原告に本件契約と同内容の契約条項について、条項自体としては異議がない旨を表明した点については当事者間に争いがない。右事実と<証拠調の結果>を総合すると、昭和三六年四月二九日、原告と、被告代表者高村との間で、大要次の如き内容をもつ地上権設定契約が締結成立したことが認められる。(1)被告神社は原告が自動車工場建設並びに観光開発地として使用する為、本件土地を賃貸する。(2)契約期間は昭和三六年四月二九日から昭和六六年四月二八日迄とし、賃料は年額坪三〇円とする。(3)貸借地域の定着物は原告の所有とする。但し使用目的実現の為に立木等を伐採することは自由なるも、右の伐採木等は、協議のうえ被告に対して無償で提供する。(4)原告の貸借土地の使用についてはあらかじめ設計書を被告に提出するものとする。(5)被告は昭和三六年五月一五日迄に原告の為に地上権設定の登記をする。(6)本契約成立と同時に原告が目的実現の為に本件土地を使用することができることを被告は保証する。(7)本件土地中日米合同演習地に指定されている地域については、被告はその指定が解除されるよう努力する。(8)右地域の契約期間、賃料支払開始時等は右指定解除の日から起算する。以上の事実が、認められるのであるが、これに対し被告は、右契約は、氏子への公告と、神社本庁統理の承認を得た後に再度結ぶ予定の本契約の準備的行為もしくは仮契約であると主張し<証拠>中には右主張に添う如き部分もあるが、しかしながら、前掲各証拠によると、公告と統理の承認の問題は、右(5)項の登記手続きにはどの位の期間が必要かと原告が前記高村宇八に質問した際、始めて同人が、本件土地は神社有地であるから登記手続の前に右公告と統理の承認の手続きが必要である旨を述べた為、右手続きに必要な期間として二週間程度が話し合いの末定められ、そこで契約条項として、前記(5)項が加えられるに至つたものであることが認められるのであつて、そうであれば、右公告と統理の承認は、登記手続きの為の条件あでつたとはいいえても、本件契約締結の成否にかかわるものとされていたとは解し得ない。よつて被告の前記主張に添う<証拠>はこれを信用できず、他には本件契約が成立したとの認定を左右するに足る証拠はない。

二被告の本件契約締結権限の有無

1  次に被告は、本件土地は山中部落民の総有に属しているから、被告神社は単独で本件契約を締結する権限がなく従つて本件契約は仮にその成立が認められてもその効力を生じないと主張する。本件土地が山中部落民の総有に属するとの右主張は、結局現在本件土地に関し入会権があるとの参加人らの主張と同一の趣旨になるものと考えられるから、以下一括して本件土地に関しその主張の権利が存しているかを検討する。

2  本件土地所有の変遷経緯

<証拠調の結果>によれば本件土地の地盤所有については次の事実が認められる。即ち、少くとも明治初年時には、既に本件土地は当時の山中部落民にとつては、いわゆる村持ちの土地と意識され他部落の者からもこれを認められていたのであつて、そこで山中部落民は、なんらの対価の支払もなく、右土地から自由に草及び小柴などを採取していた。ところで明治七年、時の政府により地租改正に際してのいわゆる官民有区分が開始せられたが、本件土地については、山梨県は最初、山中部落の村持ちの土地であり、又部落民にとつて日常欠くべからざる収益行為が行われてきた土地であることも認め、その為これを官有地とすることを一時見合せ、「御詮譲地」として未定地のままにした。しかし間もなく本件土地は官有地に繰入されるに至り、その為土地の管理が厳しくなり、山中部落民の草、小柴、やといもや、転石の採取等も自由になし得ないようになつてきた。これが為、官有地繰入当時は、右草等の採取さえ自由になしうれば良いとして格別本件土地の官有地編入を問題視しなかつた山中部落民も、その生活の大部分を右採取した産物によつて支えていたことから、官有地とされたままでは生活が危くなるとして不安を抱くに至り、そこで山梨県知事に対し本件土地の払い下げを強く求めるに至つた。これに対し、山梨県知事においては、結局部落住民は土地所有権そのものより草木の採取が自由になされうるか否かの方に関心があるものとして、その場合には官地貸渡しの名義をもつて相当の年期を定め、旧により入会わせ、植林保護等を住民に行わせるのが適当と考え、その為明治一六年に、従前の一村又は数村入会樹木芝草を伐刈した慣行があり、実際に官有地編入により生活に差支える場合には入会地上の立木芝草等の払い下げ(樹木については二〇年以内、芝草は五年以内の期間再度の払い下げ出願に及ばずとする)を行う旨の布達を定めた。しかし山中部落住民は、本件土地については前記の如く実質上これを村持ちの土地と考えており、また官有地のままでは将来如何なる制限を受けるかも知れないとして、強い不安を抱いて、右草木の払い下げを受けるだけでは不十分として本件土地自体を入会山林原野と表示してその払い下げを強く求め続けた。これに対し山梨県知事は、明治一六年一一月二日、丁第九九号をもつて、郡役所に対し、従前数村又は一村入会小物成官有林山原野の内、従前御詮譲地とされていた土地は、国土保安に必要な部分以外はその入会つていた村に払い下げる旨の通知をなした。そこで山中部落住民は直ちに総代を選出して、翌明治一七年、本件土地を含めて約五八三町歩の土地につき江戸時代から部落民が入会つていた土地であるとして県宛に払い下げ出願をなした。しかし右出願は代価不相当として却下された為、その後山中部落民は、右払い下げ価格を増しながら明治二〇年六月迄に四回にわたり同様の出願をなしたが、右同一の理由でいずれも却下された。その後明治二二年に至つて始めて代価七一四円余の払い下げ価格の出願が受理せられたが、同年中に本件土地は他の土地と共にすべて御料地として御料局の管理に移され、払い下げ手続きは中断された。そこで山中部落民は御料局静岡支庁に対し引続いて明治二四、二六、二七年と払下げ出願をなしたが、御料局は払下げの為の規定の存しないこと、御料林草木払下規則により、本件土地生立草木については、従前山梨県から草木の払下げをうけた入会団体は、本規則に基づき、旧来のとおり永世払い下げを受け得られること等の理由から、右土地自体の払い下げ出願はその必要なしとしてこれを却下した。しかし前同様の理由から山中部落民はその払い下げ出願を続けたところ、明治四四年三月に至り、不時の災害をきつかけに本件土地を含めて山梨県下の入会御料林は山梨県に下賜されることになつた。そして山梨県は大正四年一一月に本件土地を含む不要存置恩賜県有財産の売払公告を行うに至つたので、払い下げ出願を続けていた山中部落民も直ちに本件土地をその周辺土地と共に売払いを受けることとしたが、当時山中村は既に他の村と合併して中野村の一行政区劃となつていた為右買受け資格が認められず、そこで本件土地は一旦中野村名義で買受けることにし、中野村もこれを了承した。ところが右中野村が本件土地を買受けた後、山中部落民自体がいかなる方法で本件土地につき権利を有することを表示するかについはて山中部落民の間でも意見が分れ、その内には右買受けの為には山中部落民各二〇円宛の拠金をしなければならないのであるから右拠金者の共有名義にするか、もしくは、部落有として他の何らかの方法でこれを表示するか等の意見も出されたが、結局部落有とし将来土地が分散したりせず、税金の問題解決にも有利であり、且つ部落の公共事業の為に用いやすい神社財産名義とすることに意見が一致した。そこで当時山中部落民の氏神であつた被告神社が選ばれ、中野村議会も、買受け後には、「本村山中組浅間神社ニ転売セントス」との決議をするに至つた。そこで山中住民は各戸平等二〇円の割合で買受け代金を拠出したが、当時裕福ではなかつた山中部落民には右拠出金が払えない者も出、その者達は皆村外に去り、結局拠出者のみ約一二〇戸が残るに至つた。そこで本件土地は他の周辺土地と共に中野村が大正六年五月二一日に払い下げを受け、その後前記決議に従つて同年一二月一九日代価二、三四八円八〇銭をもつて中野村から被告神社に転売され、同日付で所有権移転登記がなされるに至つた。その際本件土地周辺の農耕可能な土地は二反程度ずつ右拠出者に分割してその使用を許すことにした。またその後、昭和四年には、二、三男対策の一として、本件土地と共に払い下げを受けた神社有の「北畠」の土地の一部約二三〇反(本件土地に接続している)を、当時の氏子二二九戸が各戸一反ずつ独占的に利用することを認めた(以下二、三男割りという)。部落は最初分割に際して一戸から一千円の土地代金をとり、三年間は毎年一〇〇円ずつの地代をとつたが、現在ではとつていない。また、翌昭和二五年には右同様本件土地に接続する神社有地の一部を、大正六年の払い下げ当時にその代金二〇円を負担した氏子及びその子孫一二七戸に、道路沿いの土地三畝、そうでない土地五畝ずつの割合で独占的利用を認めた(以下旧戸割りという)。右旧戸割りは前年の二、三男割りが旧戸、新戸平等になされた為、払い下げの際相当の犠牲を払つた旧戸から異論が出て行われたものである。右二回の分割で各戸の独占的利用が許されている土地の利用期間は永代であり、その利用方法は自由となつているが、転貸、利用権の譲渡は禁止されている。しかし実際には右土地は村外の者にも相当数転貸もしくは利用権の譲渡の契約がなされて、その者達が利用しており、殆んど個人所有地と変らない状況にある。

なお、前記払い下げ以後、被告神社の正式な氏子となるには厳しい制限があり(諸役テンマをつとめ、且つ二〇年以上部落に居住し、永住の見込みあるもの)更に氏子加入金を支払わなければならないことになつている。払い下げ以後氏子となつたのは、大正一一年に二〇円の氏子加入金(もしくは入会――にゆうかい――加入金)を支払つて氏子となつた者一二名、昭和一七年に四〇円の加入金を支払つて氏子となつた者二八名、昭和二四年に三千円もしくは五千円を支払つて氏子となつた者二〇名のみであり、総計一八五名である。右氏子が他の部落民と異なる点は、前記の如き本件土地の分割の如き場合に、その割当てを優先的に受けられる資格を有するものと考えられていることである。本件土地の採取行為については他の部落民と何ら差異はない。

現在山中部落の戸数は約三九〇戸(別荘等は含まず)、そのうち約二九〇戸がいわゆる入会権者といわれている者であつて、そのうち本件訴訟に参加していない者は五戸である。そして右入会権者といわれている者の殆んどは、大なり小なり農業に従事している。現在山中部落には田は約五三町歩、畑は約九〇町歩ありそこでは米、とうもろこし、大豆、小豆そば、蔬菜類等が主として栽培されている。

3  利用行為の態様及びその変化

<証拠調の結果>を総合すれば次の事実が認められる。

(一)  草の採取

山中部落民は江戸時代から主として畑作、農業と養蚕によつて生計を立てていた為、まず農耕馬の飼料及び畑の堆肥として大量の草が必要であつた。そこで江戸時代から山中部落民は、部落に近い本件土地に毎年火入れをして原野としたまま草を採取していた。前記本件土地払い下げ前後からは、他の土地への類焼の危険等から火入れが行われなくなり、その為立木が成長したので、以後は主としてその枝下の草を刈るようになつた。その当時から人造肥料も使用され始めたが、部落民の農地の為には草による堆肥が良い為もあつて、その必要は徐々に減少してはいるが、なお現在も草の採取は続けられている。

一方、農耕馬の飼料としての草の必要は、昭和二〇年以降農耕馬の数が減少し続け、現在では主として観光用としての三、四〇頭を残すのみとなつているので飼料としての草の必要は著しく減つている。

右草の採取については、前記認定のとおり官有地編入後県及び御料局とも土地所有の有無は別としても、山中部落民における草の必要性が重要であつたことは認めていた為県においては相当の期間、御料局においては永世、草の採取を継続することを認め、但しその手続きとしては、草木払い下げ規定を作り、右規定に従つて払い下げられることとなり、また大正三年には、部落の区長が中野村村長の許可を受け、その指示した期間内に採取すべきこと等の規約を他の周辺住民との間で締結したこともあるが、実際には部落民は殆んど、自由に草を採取していた。本件土地を神社名で払い下げを受けてから後には何らの制限もなく現在に至つている。

なお、昭和二〇年一〇月から同二五年初め頃迄は、本件土地全部が米軍によつて接収されていた為、部落民は事実上本件土地へ立入ることができなかつた。しかし部落民の強い要求もあつて、同年二月に日本国が本件土地を借り上げ、これを米軍に提供した形に改めた際、草の採取の為の本件土地立入りは演習に支障なき限り最大限に認めることになり、土、日曜日は必ず右立入りが許され、その他の日でも、米軍が調達庁を通じて村当局へ演習を行わないとして指定してくる期間は自由に立入ることができるようになつた。昭和三二年には、本件土地中A地区が返還され、以後右地区については前記の如く自由に草の採取を続けている。

(二)  やといもやの採取

右(一)項認定の如く、山中部落民は畑作と同時に重要な家内産業として養蚕を続けていた為、蚕がまゆを作るのに必要な「もや」を雪解け後木の芽が出る迄の三、四月に本件土地から必要量だけ採つてきていた。しかし昭和一五年頃には戦争の為採算が悪化して養蚕をやめる者が続出し、同二〇年頃にはこれをなす者がいなくなり、やといもやの採取も行われなくなつた。現在においても山中部落民で養蚕をなす者はいないが、将来養蚕を再開したいとして、用具を蔵している者はある。

右やといもやの採取についての県又は御料局による制限及び部落内の規約については草の採取の場合と同一である。

(三)  小柴の採取

主として炊事風呂等の燃料として用いる小柴の採取も、江戸時代から山中部落民において行われていたが、本件土地において立木の枯枝もしくは落ち枝を採取する形では、本件土地が払い下げをうける前後、立木が成長してきてから行われるようになつた。その必要性は、最近では他の燃料の普及により漸次減少しているが、これを全く用いていない家は稀であつて未だ相当程度、風呂、炊事用に用いられている。

右小柴の採取についての県又は御料局による制限、及び米軍接収等による制限については草の採取の場合と同一である。

(四)  転石の採取

本件土地は富士の噴火によつて生じた溶岩地帯である為地表に右溶岩が露出しており、山中部落民はそのうちそのままの形で運び出すことのできる程度の大きさの溶岩を転石と称して、これを井戸石また塀の土台石等に利用している。右の如き転石の利用が始まつた時期は明確ではないが、その利用方法からして明治以前からなされていたものと推認される。もつとも右転石の採取については、従前は何らの制限がなかつたにも拘らず、昭和初期からは被告浅間神社の宮司への届出を必要とすることになつたが、届出さえすれば自家用にする限り何ら制限なく採取することができることになつている。なお右転石採取についての米軍接収等による制限については草の採取の場合と同一である。

(五)  その他の利用行為

大正六年に本件土地が浅間神社名義になつてからは、前記のとおり立木が成長してきた為、これを育成することになつた。そこでその頃から、山中部落では各戸から一定数の者が、春秋の二回必ず林の下草や林の育成に有害な小立木を刈りとる下刈りに参加しなければならなくつた。但しその際採取された下枝又は小立木等は、各戸に平等に分配され、これは小柴と同様燃料又は畑作に利用されている。また成長した立木(主として赤松、楢等)は、これを伐採して売却し、その代価をもつて被告神社の改装費にあてるのを始め、山中部落内の学校の備品、又は体育館建築資金、村の祭礼費、消防費等の為に用いられている。最近では昭和三二年に、本件土地の演習地内の楢の木を一二町歩にわたり伐採し、その代金で小学校の体育館を建設した。なお右昭和三二年の伐採時頃迄は伐採後はそのまま放任し、自然に若木が成育してくるのを待つてこれを育成していたが、右日時頃からは積極的に伐採跡に植林をなすようになり、その場合には、下刈りと同様部落の各戸一名ずつがその植林作業に従事することになつている。

また本件土地は、昭和二五年から日本国が神社から借り上げて米軍の演習地として提供しており、その賃料が現在では年四二〇万円程度になる。右賃料は一旦神社会計に入るが、神社に必要な費用以外は部落の諸費用に充てられる。

なお大正末期には、道路改修用に本件土地上の転石を大量に業者に売却し、その代価で消防団の法被を購入したこともあるが、その他には転石を大量に売却した例はない。

4  利用行為に参加しうる資格

前項掲記の各証拠によれば、右利用行為には古くから次の如き参加資格の制限があることが認められる。即ち

まず第一にその者が山中部落の地域内に継続して居住するであろうと一般に認められる者でなければならない。必ずしも独立の家屋を所有し或いは借りて居住していることは要せず、部屋借り(通常、親ないし本家の家の一室を借りる)をしている者でも差し支ない。第二にその者が諸役テンマをつとめたことが必要である。テンマとは、山中部落の共同生活の為の労働奉仕を主とするもので、下刈り、植林作業、道路補修作業、神社の清掃、葬式への協力等である。もつとも大正六年に拠金をしたいわゆる旧戸の子孫、又はその分家である住民は当然利用行為が許されており、又山中部落出身の者を妻として長年居住し、テンマをつとめてきた者も特に後記の手続きなくして利用行為参加資格を認められている。右以外の外来の者は、右二要件を備え、且つその属する組の組長(常会長)を通じて、利用行為の仲間への参加を区長に申し出る。右申し出は、通常下刈りで部落民が集つた現場でなされ、そこで全員の承認を求めて決定されることが多い。以上のとおりであつて、右以外の者、例えば警察官又は学校の教員等のような一時的居住者は利用行為に参加することは原則として許されていない。ただ右の者らから燃料用の枝を分けてもらう為に下刈りのみ参加したい旨の申し出があつたような場合にはこれを認めている。

右の如くして本件土地の利用行為に参加を許されている者(以下利用権者という)も、その者が山中部落を離れることによつてその資格を失う。後に帰村した者について利用権者としての地位を回復した例もあるが、これについては一定の基準はない。

5  部落内の組織及び機能

第3項掲記の各証拠によれば、本件土地の利用についての部落内の組織について次の事実が認められる。即ち、

山中部落は行政的には、当初山中村とされ、明治初年に他と村と合併して中野村山中となり、現在では山中湖村山中となつて単なる行政区劃にしかすぎないことになつたが、当初から村の行政機関とは別個に部落内の特有の組織を有している。第一には有志会(当初はおもだち会とも呼ばれた)と呼ばれる組織がある。有志会は、区長(後述)、副区長、被告神社氏子総代、現及び元村会議員、元助役もしくはそれ以上の役職についた者、各組長(常会長)等部落の有力者(いわゆるおもだち)約五〇名程度の者達によつて構成され、必要に応じて被告神社宮司等各種団体の長を参加させている。この有志会は区長が招集して、立木の伐採、風倒林の処分、地盤の貸与もしくは譲渡、分割、部落内の定例の行事等についてこれを討議するが、右行事の規模等の決定については有志会のそれのみでなしうるが、地盤の処分等については、後記の如き組(常会)又は区民大会等で決定さるべきものとされており、有志会はその為の原案を作成する機関ともなつている。但し有志会は、その構成メンバーからしても部落の最も有力な意思決定機関であつて、その為ここで決定されたことは、更に各組で討議される建前になつていても、事実上の強制力をもつことが多く、従つて区長も有志会のみで後日各組へ討議の為議案を廻すことをしない例も多い。第二に山中部落は当初から山中区とも呼ばれ(財産区とは関係がない)その山中区が村の一つの行政区劃としての機能をもつてきた。その区には区長が選挙で選出されるが、区長は単に行政区劃としての長としてのみでなく、山中区内の本件土地利用集団たる山中部落民らの長たる地位も兼ね備えて対内的には部落の日常的な行事等を専行し、その案件によつては、有志会を招集する権限をもち、又有志会等の決定を執行する役割をもつており、また対外的には右山中部落を代表して事務を処理する権限をもつている。区長の右の如き二重性は、結局山中区の住民と、利用権者たる山中部落民とが、その大多数において重複していることに由来しているものと解される。第三に山中区には一組から五組迄と諏訪組及び二の橋組との七つの組(常会ともいう)がある。後二者は第二次大戦後人口の増加に伴つて新たに作られたものである。組にはその各々に組長(常会長ともいう)が選ばれており、この組長が区長からの指示等により組を開催して事案を討議決定し、又区及び村からの連絡事項を伝達論議する。このようにこの組は、区もしくは部落の連絡事項の末端の伝達機構であると同時に、本件土地の重要な産物の処分等利用権者に重大な利害を及ぼすような案件が生じた場合には、その案件を論議する下部討論機関ともなる。従つてその案件によつては、一時的な居住者を加える時もあれば(例えば環境衛生、道路、祭礼等に関する件)利用権者のみで集会が持たれる時もある。第四に、右の如き利用権者にとつて重大な利害を及ぼす事案について組において論議された後、全員の承認がなお必要な場合には、氏子大会、総寄り、権利者集会又は区民大会等様々な名称で呼ばれる利用権者の総会が開かれる。特に土地の処分についてはこの利用権者全員の意見に依らなければならず、然らざるため遂にその処分が不可能となつた例としては、大正一四年部落民の一部の者が若尾某に本件土地を貸与することにした際、他の部落民の反対にあい、総寄りで右貸与が否決された例、昭和三六年には、区長が自ら自己名義で前記割地の一部を防衛庁に貸与した為氏子がこれに異議をとなえたので大会の決定により契約当事者を神社名義に改めて変更した例がある。

以上の各認定に反する<証拠>は、前掲各認定資料に照してにわかに採用し難く、他には右認定を覆えすに足りる証拠はない。

6  次に前示認定の各事実に基づいて順次判断を進めることにする。

(一)  本件土地が官有地に編入される迄の時期

まず、当時の山中部落の性格を考えるに、その組織、団体的統制、各部落民の有した権能、負担等からすれば、山中部落はその生活協同体としての特質から、山中部落民の総体としての部落自体としても法的主体性を有すると共に、それと同時に(それと別にではなく)部落民個人も少くとも本件土地利用に関する限りはなおその法的主体性を失つていなかつたものといわなければならない。右の如き性格は、団体としての単一性が明確にその構成員から独立し、その団体が構成員とは別の独立の存在となつている社団とも異なり、勿論契約によつて生ずる組合的結合、もしくは単なる個人の結合した場合とも異なるものであつて、民法上法主体として予想されない性格をもつた団体といわなければならず、結局これが講学上にいわゆる実在的総合人といわれるものに合致するといわなければならない。ところで次に、当時右山中部落が有していたと考えわれる本件土地上の利用権能について考えるに、前記認定のとおり、本件土地は既に山中部落の「村持ち」の土地と称され他部落民からもこれが承認されていたこと、実際にも山中部落民のみが専ら現実的、具体的な草等の採取を独占的になしていたこと、古くから山中部落が本件土地に対して火入れ等を毎年行い、部落の統制のもとに土地の維持管理につとめていたこと、官民有区分の際も直ちに官有地とされず、一時御詮譲地とされたこと、等の各事実からすると、山中部落による本件土地に対する利用権能は、長期間の慣習により、もはや単なる債権的な弱い性質のものとしてではなく、その実質においていわば所有権に類似する程の強い土地に対する直接的、排他的な支配権能を包含する権能となつていたと認めるべきである。

そうすると、官有地編入迄の本件土地に対する山中部落による利用関係は、前記の如き実在的総合人としての山中部落(以下山中部落という場合はこの意味に用いる)が、右の如き利用権能を有していた関係にあつたものといわなければならない。そこで、次に右の如き場合に、部落民の総体としての山中部落とともになお法的主体性をもつ山中部落民がいかなる権能を有するかについて考えるに、前項認定の各事実からすれば、本件土地利用行為のうち、部落民の草等の採取行為は、部落の有する土地利用権能の中心的なものであり、且つ部落としても、これを否定しえない性格のものとされていたと考えられることからすれば、山中部落民は、山中部落の右土地利用権能のうち、草、小柴、やといもや、転石の採取の権能に関する限りはこれを単に事実上許されたものとしてではなく、自己に固有な具体的権能としてこれを有するに至つたものというべきである。そうとすると、山中部落民の本件土地に対する収益権能は、一定地域の住民が、日常の需要を満たす為に、一定の原野において、長期間共同してその土地利用に関し、一定の規制をなし、もしくは共同の義務を負いつつ、草、小柴等の採取等を行つてきた結果、その採取等の慣行が単なる慣行にとどまらず、前記のとおり部落民によつてその権利性を意識され、他の者も結局これを無視できないほど強固なものとなつてきた結果認められるに至つたものとして、現行民法上にいう入会権に該当するものであつたというべきである。

従つて、本件土地が官有地に編入される迄の間は、山中部落は、本件土地に対し、草、小柴、やといもや、転石を採取することを内容とする入会権と同一の権能を有していたものというべきである。

(二)  本件土地が官有地とされていた時期

次に本件土地が官有地に編入されたことによつて、山中部落民の右の如き利用権能がいかなる影響を被つたかについて検討する。この点につき原告はまず仮に山中部落民が入会権を有していたとしても、右官有地編入によつて消滅したとして大正四年三月一六日の大審院判決を引用する。しかしながら、右判決は、当時の諸法令からすれば、村民が当該土地に対して「慣行証跡ニ照シ」て「単ニ天生草木等伐採ノミヲ為スカ如キ軽キ関係ヲ有シタル」だけの場合でその土地が官有地に編入されたならば、右村民の入会権は消滅するべきことを判示したものと解すべきであつて、右判決にいわゆる「村ノ所有地ト同視スルニ足ルモノ又ハ村民カ之ニ付テ樹木等ヲ自由ニスルコト土地ノ所有者ト異ナラサルカ如キ重キ関係ヲ有シタル」土地が官有地に編入された場合については何ら触れていないものと解すべきである。ところでまず本件土地に対して山中部落の有していた利用権能は、上記認定のとおり所有権に類似する程の強い排他的支配権能を包含していたものと認めるべきであるから、山中部落は本件土地に対し、右判決にいう「村ノ所有地ト同視スルニ足ル」重き関係を有していたものというべきであり、山中部落民もまた、前記認定のとおり本件土地において古くから火入れをして、良質の草を継続的に採取できるように努め、その採取も独占的になしていたものと認められるのであるから、その利用関係もやはり右判決にいう「土地ノ所有者ト異ナラサルカ如キ」ものであつたということができるのであつて、従つて、本件に前記大正四年の大審院の判決を引用することは妥当ではない。というべきである。そこで次に、右の如き利用対象たる土地が官有地に編入された場合の部落民の入会権の消長について考えるに、当時の諸法令からすれば本来右の如き利用関係のもとにおかれた土地は、民有地となるべきであるが、これを誤り官有地となした場合、その土地上の入会権の存廃について、何ら法令には触れるところがないこと、土地の利用権たる入会権は本来地盤所有権の有無、もしくはその帰属者の変化とは直接関係がないこと、土地が官有となつたとしても、その土地が特別な行政目的に使用される為私人の利用を排するものでない限り、当該官有地上に私権たる入会権の存続を許さないとする合理的理由は見当らないこと、以上の諸点を併せ考えれば、山中部落の本件土地上の利用権能は右官有地編入によつては影響を受けず、有効に存続したと解するのが相当であり、また山中部落民の有する前記入会権も消滅しなかつたものと認めるのを相当とする。もつとも本件土地が官有地とされていた間前記のとおり県及び御料局によつて草木払い下げを規定されたが、右の規定中には前示のとおり入会権者への払い下げについて種々言及されている個所が多くあり、且つ前記認定のとおり山中部落民が官有地編入後も右規定に従つて本件土地上で草の採取等の利用行為を続けていたことからすれば、右は地盤が官有とされたのに、山中部落民の入会権を無視できないため、事実上これを尊重せざるを得なくなり、形式的規制を加えて、部落民に権利の実質を得しめたものと解するのが相当である。

(三)  被告神社所有名義になつてから現在迄の時期

そこで次に大正六年に至つて本件土地が被告神社所有名義になつてから後の山中部落民の入会権の消長について考える。

まず前記認定のところからして本件土地が被告神社に転売された頃は、造林が部落による収益行為としてなされるに至つたほかは、格別の変化を見出すことはできない。そして右造林が部落による収益行為としてなされるに至つた原因は、後記の如く山中部落が本件土地を所有するに至つた結果とみられるのであつて、従前からの生産物利用についての山中部落の実在的総合人たる性格自体には何らの変化はないものと認めるべきである。もつとも、払い下げ後は山中部落の住民も増加してきており、区長等は行政機関としての性格も有するに至つているが、しかしなお行政機関とは別の部落独自の有志会、総会等の機構をもち、従前どおり本件土地の利用行為に参加するには厳しい資格制限があり、そこに団体的統制がなされ、利用行為を許された者はまた下刈りその他の義務をも負担しなければならないとされていることからしても、実在的総合人としての山中部落は、行政区劃としての山中部落として考えられている住民集団とは別に、なお存続しているものというべきである。

一方、本件土地所有の帰属について考えると前記認定のとおり、本件土地払い下げ運動は専ら山中部落としてなされ、その払い下げ代金も当時の山中部落民全員の平等な拠出金によつてまかなわれたこと、払い下げ後、本件土地の所有名義を如何にするかが議論され、結局所有名義は被告神社名義とし部落民の従前からの集団的な草の採取等の利用行為を確実且つ容易に継続することができるようにしてわざわざ共有名義を避けたこと、被告神社は払い下げには何らの貢献もしていないこと、後記判示のとおり、後日神社費用、公共物建築等の費用捻出の為本件土地上の産物を処分した際、その処分の決定権は神社以外の部落内の諸機関にあるとされていること、以上の各事実を併せ考えてみると、本件土地が被告神社所有名義とされたのは、本件土地が官有地に編入されたことによつてその利用に苦しんだ山中部落民が、本件土地を官有地編入前と同様に確実且つ容易に利用してゆく為に考えた一つの便法にすぎないというべきであつて、従つて本件土地自体の真の所有者は前示実在的総合人たる山中部落であるといわなければならない。もつとも本件土地が払い下げによつて神社所有名義になつてから現在迄、本件土地上の立木、風倒木、転石等を相当多量に売却する際、被告神社氏子総代会によつてこれが承認され、神社本庁に対してその処分許可申請手続きがなされている。そうすると一見本件土地が真実被告神社の所有になつたものの如くにも見られるが、しかし右産物の処分の決定については、前記認定のとおり実質的には有志会、または各常会の決定、もしくは区長の決定等によつて行われ、且つそれが必要とされているのであつて、これは本件契約についても専ら有志会においてその是非が論議せられ、その契約時においても区長が氏子総代とともに契約書に署名押印しているところからも明らかであろう。若し本件土地が真実神社所有であれば、このような事態は生じ得ない筈であり、財産処分については氏子総代役員会が最高の決議機関となつている筈である。それが実際には、右の如く財産の処分は部落内の他の諸機関において事前に、決定され、氏子総代役員会は最後に形式的になされているだけということは、本件土地は部落民の集団的利用の便宜上信託的に神社所有名義にしただけで、その実質的所有権は山中部落にあることをうかがわせるに充分であり、ただ法形式上宗教法人法等の適用をうける神社所有名義にした為、その限りにおいて産物の処分の手続に右法律上の制約をうけているにすぎないものというべきである。

また右売却代金から神社の改修費用等被告神社固有の支出がなされていることも前記認定のとおりであるが、しかしこのことは本件土地が神社の所有になつた為ではなく、もともと被告神社の維持管理上、山中部落民が同時に被告神社の氏子であるための義務であつたところからなされているものと認めるのが相当であり、右の代金支出の点から直ちに本件土地が被告神社有地であると認めることは困難である。

また、本件土地は、その周辺土地とともに払い下げとなり、右周辺土地の一部が、払い下げ当時及び昭和二四、二五年に右払い下げ代金を拠出した者もしくはその子孫に対してのみ分割され、その独占的利用を許していることも前記認定のとおりである。すると、右事実からは一見本件土地は右払い下げ代金拠出者らの共有に属したのではないかとの疑念も生じ得るが、前記認定のとおり、右周辺土地も含めてわざわざ共有名義を避けて神社所有名義にしていること、及び代金拠出者らも、本件土地については分割請求権をもつているとは意識しておらず、ただ部落により将来土地が分割される際には優先的にその割当てをうけ得る権能を有していると考えているに過ぎないことからしても(これは拠出金への代償と思われる)本件土地を右代金拠出者らの共有に属しているとみることは相当でないというべきである。

以上の次第であつて、本件土地は払い下げによつて被告神社所有でも、代金拠出者らの共有になつたものでもなく、従前と同様の性格たる実在的総合人たる山中部落が所有するに至つたものと認めるべきである。そうすると山中部落民の有する入会権も、従前と同様山中部落民が山中部落とともに主体性を有していること、しかも昭和一五、六年頃迄は、草、小柴、やといもや、転石の採取を継続していたことからして、右利用行為に関する限りは従前と同様に部落民に固有な権利として存続していたものといわなければならない。ただ右入会権の基礎となる部落の有する利用権能が、所有権へと変化したことによつて、部落民の入会権は、いわゆる共有の性質を有する入会権になつたものといわなければならない。

そこで次に右時期以後山中部落民の入会権の内容について変化があつたか否かについて検討する。

まずやといもやの採取については、前記認定のとおり昭和一五年頃からこれをなす者が少くなり、昭和二〇年前後には、山中部落民の一人としてこれをなす者がいなくなり、現在も復活せられず、且つ桑園の育成は容易でないことが明らかである。そうすると部落民の有する入会権の内容の如何は、現在継続して表現されている利用行為から具体的に決定さるべきであるから、仮に山中部落民が今後養蚕を復活し、これに伴つてやといもやの採取をなす意志ありといつても(これを部落として認めることは自由である)長期に亘つて現在まで右やといもやの採取をしていない限り、これを内容とする入会権を有するとはいいえないものである。

次に草、小柴、転石の採取については昭和二〇年から同二五年迄は一時全くこれが不可能となり、昭和二五年からは一定の制限内でこれを継続し、昭和三二年からはA地区では従前どおり自由にこれをなすに至つたものであることは前記認定のとおりである。そうするとこれらの利用行為が全くなされなかつたのは約五年間であり、それも自発的もしくは必要がなくなつた為ではなく、全く外部事情によつて、やむなくこれをやめたのであり、しかも五年後には右利用行為が従前と同様の方法によつて制限的にではあるが、再開継続せられているのである。従つて右利用行為はこれを入会権に基づくものと認めるに足りる継続性と表現性を有しているものというべきである。

7  結論

以上判示のとおり本件土地は名義上被告神社の所有とはなつているものの、その実質は山中部落の所有地であり、右神社は何らの処分権限も保有していないことが明らかである。従つて原告の、本件土地が被告神社所有であり、その神社と締結した本件契約は有効であるとの主張はこれを肯認し得ないことになる。もつとも右契約は右山中部落の追認、特に有志会によるそれを予想したもの、もしくは他人のものの売買と同視しうる契約とも考えられるのでこれを考えるに、本件契約によれば、原告は主として観光開発の為に本件土地を利用する目的を有し、その為に家屋、駐車場、ゴルフ場等の設備を順次なしていく意思をもつていることが明らかである。従つてこれを認めるならば前記認定の如き山中部落民の入会権の行使は、三〇年の長きにわたつて阻害せられ、もしくはその一部を全く行使不可能とせられることになる。そうするとそのような事態を生ぜしめる事項についてこれを決定しうるのは、山中部落においては前記の如く区民大会等による総会において、山中部落民全員一致の賛成の意思表示があつて始めてこれをなしうるのであり、有志会の承認事項ではなく、しかもこの点については、<証拠>によれば、山中部落民と認められる者のうち、五名を除く全員である参加人らがすべて本件契約締結に反対していることが明らかであるから、仮に有志会が本件契約締結を承認したとしても、結局本件契約は山中部落による追認、もしくはその処分権の移譲はないものといわなければならず、本件契約はその効を生ずるに由がないといわなければならない。そうすると、いずれにしても本件契約の有効を前提として原告の求める地上権確認、及び本登記手続請求ならびに土地引渡しの各請求はその余の点を判断する迄もなくいずれも理由がないといわなければならない。

三参加人らの本訴請求について

1  まず原告は、参加人らのうちにはとうてい山中部落民としての資格を有しているとはいいえない者まで含まれていると主張し、右に添う<証拠>もあるが、右は<証拠>に照らしてにわかに信用しえず、かえつて<証拠>によれば、参加人らはいずれも山中部落民としての資格を有しているものと認められ、これに反する証拠は他にはないから、前記原告の主張はこれをとり得ないものである。

2  そうすると、参加人らはいずれも山中部落民として、前記のところからして現在においては、本件土地に対する草、小柴、転石の採取を内容とする入会権(使用収益権)をもつことになるが、右権利は山中部落の有する所有権の一内容としての性格も兼ね備えていること、右権利は参加人ら各「個人」に分属した固有権ともいいうること、また右権利は内容的には限定されているとはいえ、その限りで本件土地全部にその効力を及ぼすと考えられること、以上の諸点を併せ考えると、参加人らの有する入会権は、その法的効力においてはいわば内容において限定をうけた持分権もしくは地上権と同様の性質をもつものと解するのが相当である(もとより譲渡相続が自由という意味ではない)。そうであれば参加人らは右入会権について、その権利の性質からして個々的、対外的にその確認を求めうるものといわなければならない。そして本件では原、被告とも参加人らの入会権の存在を争つていること明らかであるからこれを確認する利益もあるというべきである。

3  次に参加人らの右入会権に基づく原告に対する妨害予防請求について考えるに、右権利は部落民の固有権として、その行使は自由といわなければならず、しかも前記の如く持分の場合と同様に草、小柴、転石の採取に関する限りでは本件土地全般にその効力を及ぼすものと考えられるから、右草の採取等の収益行為を妨害するが如き事態の発生が予測せられる場合には、予めこれを防止すべきことを請求しうるは当然である。しかしながら本件において参加人らが予防すべき妨害として主張していることは、原告が本件契約に従つて観光施設等を作ることであり、そうであれば本判決により原告の請求が否認せられる限り原告が右の如き行為に出ることはあり得ないと考えられるのであつて、この点で原告に対し予め右行為を禁止する必要はないものといわなければならず、従つて参加人らの妨害予防請求は不相当といわなければならない。

4  最後に原告のなした地上権設定の仮登記抹消請求について考えるに、右地上権設定の仮登記の内容と、参加人らの有する前記入会権の内容とが全体として抵触することは前記各認定のところから明らかである。そうすると右入会権の前示の如き性質から、あたかもいまだ登記はないが一定の内容をもつ持分権もしくは地上権が参加人らにあり、これと同一内容の、かつその実体を欠く地上権設定の仮登記が原告名義に存在する場合と同視しうるから右仮登記はその実体と齟齬するものとして参加人らにその抹消を許容しても差支えないというべきである。

なお原告の当事者参加に対する異議はその理由がないからこれを却下する。

四以上の次第で、原告の本訴請求は失当としていずれも棄却することとし、参加人らの本訴請求は前示範囲内で正当としてこれを認容し、やといもやの採取をなしうる入会権があるとの部分及び妨害予防を求める部分はいずれも失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法八九条、九二条但書によりすべて原告の負担として主文のとおり判決する。(清水嘉明 須藤繁 裁判長小河八十次は、転任につき、署名押印することができない)

物件目録

山梨県南都留郡山中湖村山中第八六五番の二

一、山林 4781.16アール(四八町二反歩)

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